アメリカズ・カップ、期待のニュージーランド艇
ニュージーランドのヨットを語る上で欠かせないのはヨットレースの最高峰アメリカズ・カップです。1995年ニュージーランドがアメリカズ・カップを奪取し、2000年に初防衛して以来、ニュージーランドはアメリカズ・カップ・レースでは常に最前線にいます。
過去6回のレースでは、ニュージーランド艇はルイヴィトン・カップ(挑戦艇決定戦)でもアメリカズ・カップの本戦でも決勝戦に残る実力を誇っています。
人口が400万人しかいない一国で成し遂げられたと聞けば、普通はその快挙に驚くものですが、至極当然だという人々もいます。それは、ニュージーランドが他国とは比べものにならないほどの情熱をヨットに傾けているからです。もちろん理由はそれだけではありません。この成功は、島国である海洋の歴史、そして長い歴史の中で培われてきたニュージーランド人の不屈の精神と開拓精神によるところが大きいのです。
ニュージーランドがアメリカズ・カップに参戦したのは1986年、初めて南半球で行われたフリーマントル(豪)のレースでした。ビジネスマンとして名高いマイケル・フェイ卿は、日本でも有名な、オークランド出身のスキッパー、クリス・ディクソンを起用し、初のニュージーランド艇を送り込みました。
この挑戦艇KZ7は「キーウィ・マジック」の名前で知られています。初挑戦ながら前哨戦(総当たり戦)では34戦中、負けたのはたったの一回だったのです。このKZ7は、アルミニウム製が当たり前だったヨットにガラスファイバーを使用し、注目を集めました。この「キーウィ・マジック」の健闘がニュージーランド人の心をとらえ、国を挙げて応援する契機となりました。残念ながら、ルイヴィトン・カップの決勝戦では、結果として銀杯の奪還に成功したアメリカ人スキッパー、デニス・コナー率いるアメリカの「スターズ&ストライプス」に借しくも敗れてしまいます。
この時がデニス・コナーと初の顔合わせでしたが、その後には何度となく因縁の対決をすることになります。フェイ卿は3~5年に一回開催のアメリカズ・カップの伝統にさからい、翌年に、サンディエゴ・ヨット・クラブでコナーに対し勝負を挑みます。90フィートの単胴船KZ1で勝負に出たニュージーランドを尻目に、コナーは60フィートのカタマラン(双胴船)でスタートラインに登場します。仕様が異なるヨットでの勝負は、双胴船に有利であったことから、これが問題となりました。0対2で敗れたフェイ卿は、ニューヨーク最高裁に申し立て、裁判所はアメリカズ・カップをニュージーランドへ渡すというフェイ卿に有利な判決を下しました。しかし、この決定は控訴で覆され、振り出しに戻ってしまいます。
1992年、彼にとって3回目となる挑戦も、不運な試練が待ち受けていました。ルイヴィトン・カップの最終戦、まさに挑戦艇の座を手中に収めようとしたときに、赤い船体NZL20のバウスプリット(船体の先に飛び出しているポール)の使い方が違反しているとイタリア艇、「イル・モロ・ディ・ヴェネチア」から抗議を受けたのです。王手をかけていたニュージーランドはその抗議に動揺し、まさかの逆転負けを喫してしまいます。
次のアメリカズ・カップを目指し、チーム・ニュージーランドは1992年に結成されました。スポンサーを獲得するために、ウイットブレッド世界一周レースのスキッパーとして尊敬を集めていた故ピーター・ブレイク卿が中心となり活動することになったのです。ラッセル・クーツをスキッパーとして、そしてトム・シュナッケンバーグをデザイン・コーディネーターとして迎え、ニュージーランドの新しいヨットの歴史が始まったのです。
1995年、ニュージーランドからは2つのチームが参戦していました。そのうちの1チーム、クリス・ディックソンがスキッパーをつとめたNZL39「タグ・ホイヤー」は、ルイヴィトン・カップで準決勝へと進みました。
もうひとつのチーム、チーム・ニュージーランドの「ブラックマジック」と呼ばれるNZL32は、ルイ・ヴィトン・カップに優勝し、挑戦艇として初めて本戦へ進みます。本戦では、宿敵デニス・コナーの「ヤング・アメリカ」に5対0で圧勝し、国中がその勝利に酔いしれました。こうして、アメリカズカップの銀杯がニュージーランドへやって来たのです。
アメリカズカップを保持する場所での開催となることから、ニュージーランドでは1999-2000年と2002-03年にこの世界的なレースが行われました。
アメリカズ・カップの開催に責任をもつ故ブレイク卿は、オークランドにすべてのシンジケートを集め、公平な戦いをすると宣言し、実行しました。シンジケートの拠点が並んだアメリカズ・カップ・ビレッジは、さびれた商業地区を生き返らせるのに一役買いました。ヴァイアダクト・ハーバーにあるこのビレッジは、今では商業ビルやアパートメント、おしゃれなレストランやバーの立ち並ぶ、オークランドでも最も活気溢れるウォーターフロントとなっています。
ニュージーランドで初めて開催されたアメリカズ・カップでは11シンジケートが挑戦艇決定戦に臨み、観戦のボートやヨットが取り囲むハウラキ湾で、熾烈な戦いを繰り広げました。チーム・ニュージーランドはスピードのあるNZL60に乗り、本戦でイタリア艇、プラダを圧倒し、5対0で勝利しました。こうしてアメリカズ・カップ史上、アメリカ以外の国として初の防衛に成功したのです。このように故ブレイク卿の決断力と不屈の精神によって、2000年のアメリカズ・カップは歴史に残るものとなりました。この大勝によって、3年後のレースでも同じような勝利が見込めると誰もが思っていました。
しかし、優勝の数ヵ月後、チーム・ニュージーランドに激震が走ります。主要メンバーだったラッセル・クーツとブラッド・バタワースがスイスのアリンギへ移籍することが発表されたのです。この移籍によってチームはほぼ崩壊の憂き目にあいます。2003年、オークランドは開催地としてアメリカズカップを盛り上げましたが、残念なことにブームやマストが折れるという惨事にも見舞われ、チーム・ニュージーランドは本拠地で防衛を果たすことができませんでした。アリンギは5対0で圧勝し、アメリカズ・カップ史上初めて、銀杯をヨーロッパへ持ち帰りました。
チーム・ニュージーランドはアメリカズ・カップ奪還をあきらめたわけではありません。2007年開催のアメリカズ・カップに向けて、世界一周レースの英雄グラント・ダルトンがチームの再生を図る大役を引き受けました。開催地ヨーロッパでも知名度のあるスポンサー探しから、チームメンバーの自信の回復や意欲の高揚まで、課題は山ほどありました。しかし、それらを乗り越え、現在はエミレーツ・チーム・ニュージーランドとして前哨戦も順調に勝ち進んでいます。バレンシアで4月から行われるルイ・ヴィトン・カップに向けて、エミレーツ・チーム・ニュージーランドは挑戦艇のランキングでトップを走っています。
こちらの関連トピックスもご覧ください
|