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英国からの入植の歴史

   

植民地主義

基本情報

ニュージーランドの最初の首都はベイ・オブ・アイランズにある、コロラレカ(現在のラッセル)にありました。それは1840年のほんの一時期でした。首都はまもなく南のオークランドに移され、1865年には更に南に移動し、現在のウエリントンになりました。
ヨーロッパ人として初めてオランダ人がニュージーランドを発見しましたがその後はイギリスの植民地となりました。 イギリスからの移民の増加とマオリの人口の減少により、19世紀から20世紀初期の半分はニュージーランドの生活はヨーロッパ文化に影響されていました。しかしながらその後、第2次世界大戦後はヨーロッパのみならず、マオリや太平洋諸国のざまざまな異文化が融合する世界の中でもユニークな文化を持つようになったのです。


初期開拓者

ニュージーランドを最初に発見したのはオランダ人の探検家、アベル・タスマンでした。彼は豊富な鉱物が埋蔵されていると信じられていた南の大陸"偉大なる南大陸(グレート・サウス・ランド)"を探す旅の途中でした。1642年、航海中のタスマンは"広く高く横たわる大陸"(現在の南島西海岸周辺)を発見しました。

最初の接触

1642年にニュージーランドを発見したアベル・タスマンはこの国をチリの南にある「スターテン島」と勘違いし、その名をつけましたが、そのすぐ後にオランダ人測量士によって、現在の英語名「ニュージーランド」のもととなるラテン語名へと変更されました。タスマンは西海岸を北上し、初めて先住民マオリとコンタクトを取ったのが今日ゴールデン・ベイと呼ばれる南島の北端部でした。2艇のカヌー(マオリ語でワカ)に乗った大勢のマオリがタスマンの船を見学に来ました。タスマンは船員を小さなボートで送り出しましたが、さまざまな誤解によりワカの1艇よって攻撃されてしまいました。そして小競り合いの結果、タスマンの船員は4人殺されてしまったのです。

収穫のない冒険

タスマンはその後もニュージーランドに上陸することはありませんでした。いくつかの太平洋の島々を巡り当時オランダの植民地(今日のインドネシア)のバタビア(今日のジャカルタ)に戻りました。東インド会社より任務を受けた彼のニュージーランドでの使命は"宝もなく、素晴らしい利益もあがらなかった"つまり、失敗に終わったと考えられています。

新たな訪問者

金星の観測のためにタヒチへ送られていたキャプテン・ジェームス・クックは、南半球の海に存在するという"偉大なる南大陸"を探し出す任務も受けていました。彼のキャビン・ボーイであった通称ヤング・ニックは1796年にギズボーンの近くの岬(今日のヤング・ニックズ・ヘッド)を発見しました。

エンデバー号

キャプテン・クックはニュージーランドを1周し、地図をつくることに成功しました。クックの船、エンデバー号に乗っていた植物学者やその他の専門家は、固有種の動植物や先住民マオリの習性についてできる限りの情報を入手しました。クックは1779年にハワイで殺害されるまでに、さらに2度ニュージーランドを探訪しました。



初期移住者

1840年までには、主に鯨やアザラシのハンターや、宣教師がニュージーランドにやってきました。これらの移住者は先住民のマオリ、特に沿岸地域に住んでいたマオリと接触していたと考えられています。マオリとパケハ(ヨーロッパ人)は広範囲にわたる取引をし、中にはマオリと生活を共にするヨーロッパ人もいました。

武器の貿易

1840年までには2,000人のパケハ(ヨーロッパ人)がニュージーランドに移民し、その多くがベイ・オブ・アイランズに住んでいました。それと同時期にマオリの部族間の戦争が度々勃発するようになり、パケハから手に入れた鉄砲で沢山の死者を出すようになりました。この戦争とパケハから広まった悪病によりマオリの人口は急激に減少しました。

入植の波

1840年のワイタンギ条約の締結により、ニュージーランドは英国の植民地となりました。その結果英国から数多くの移民者がニュージーランドへやってきました。彼らの旅費の多くは入植会社によって支払われていました。そして入植計画は英国の農場経営システムを模範にするというエドワード・ギボン・ウェイクフィールド(Edward Gibbon Wakefield)の理念に基づき進められました。これらのシステムは入植者が自分たちの農場を開拓し自給自足の生活ができ、彼らが先住民の人々と平和的に暮らすことを意図していました。

マオリの反抗

移民者がさらに増え、その結果彼らのための土地もさらに必要となりマオリの土地収奪も徐々に進んでゆきました。ワイタンギ条約の曖昧さとその解釈の違いにより、ワイタンギ条約での「土地所有」概念そのものをよく理解していなかったマオリはその意味に気づき始め過激な抵抗を始めました。1840年代半ばにはノースランドで、1860年代には残りの全土において大規模な戦いが起こりました。英国軍といくらかのマオリはこれらの闘争に介入しました。

人口の減少

土地争いにおいてマオリは数多くの場において勝利を治めました。ノースランドの“オハエワイ要塞”の防御体制にも見られるようにマオリ軍隊の戦力水準は高く、時にはパケハ(ヨーロッパ人)よりも優れていました。しかしながら入植者たちの軍力とその圧倒的な数の多さゆえ最終的にこのニュージーランド戦争はマオリが敗北する結果となりました。その後もパケハ(ヨーロッパ人)はワイカトやタラナキといったマオリの良質な農牧地域までも支配していきました。主要な土地を奪われ、貧困、悪健康に陥ったマオリの人口は激減し、1890年までにはたった40,000人程度まで落ち込みました。

英国との結びつき

19世紀から20世紀のほとんどの間、ニュージーランドは英国に強い影響を受けました。行政、教育、そして文化はかなりの部分において英国がモデルとされました。ニュージーランドの軍隊はボーア戦争と2つの世界大戦に参加し、数多くの死者や負傷者をだしました。1939年に当時の首相であったマイケル・サベッジ(Michael Savage)は“我々は英国と共に歩む〜where she goes, we go, where she stands, we stand〜"とコメントしました。

新しい関係

第二次世界大戦後、英国との文化的つながりはますます強くなりました。しかしながらニュージーランド政府はアメリカと主要同盟と軍事協定を結ぶことに成功しました。ニュージーランドはSEATO (South-East Asia Treaty Organisation)とthe ANZUSA(Australia, New Zealand, and United States)条約に調印しました。ニュージーランド軍は朝鮮戦争やベトナム戦争においてもアメリカ軍と共に戦いました。

共和制国家へ?

入植の歴史の影響を受けていたものの、ニュージーランドは独自性の強い国となりました。英連邦のメンバーでいたのと同時にアメリカとも親密な関係を維持し、ニュージーランドはより独自の貿易を行い、海外政策を持つようになりました。1980年代半ば、ニュージーランドは反核立法を制定、太平洋諸国内において平和を維持しようとする国の手本となっています。今日では、保守的な政治家たちでさえもニュージーランドについて、この国が共和制国家になりつつあると公言しています。


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