テ・キンギタンガ - 王擁立運動とマオリ王の系譜
2006年5月23日、マオリ女王テ・アリキヌイ・デイム・テ・アタイランギカアフ(通称デイム・テ・アタ、ただしデイムは爵位を表す敬称)は、キンギタンガ(王擁立運動)を率いるマオリ女王として、即位40周年を祝いました。トゥランガワイワイ・マラエ(集会場)には、多くの人々が集まって祝福し、女王の偉大な功績を称えました。いつもの毅然とした態度で公衆の前に姿を現したデイム・テ・アタでしたが、衰弱した様子は隠しきれず、体調が優れないのは明らかでした。
それから3ヶ月経たないうちに、トゥランガワイワイ・マラエ(ハミルトン近郊)には未曾有の群集が集まることとなりました。穏やかな中に強さを秘めていることで知られ、尊敬され、称えられてきたデイム・テ・アタは、2006年8月15日、75歳の生涯を閉じました。キンギタンガはリーダーを失い、そしてマオリ社会は愛する女王を失いました。
死後6日間、トゥランガワイワイに安置されたデイム・テ・アタの亡骸のもとには、アオテアロア(マオリ語でニュージーランドの意)内外各地から人々が弔問に訪れました。あらゆる部族のマオリが女王の霊前に祈りを捧げた他、マオリ以外の弔問客も多く訪れ、生前キンギタンガの基本精神として「調和」を唱えてきた女王にとって何よりのはなむけとなりました。
キンギタンガの起源は1850年代にまでさかのぼります。1840年マオリの首長と英国君主との間で結ばれたワイタンギ条約を端緒に、それはマオリがニュージーランド政府によって多くの土地を失った激動の時代でした。驚くべき速さで土地を失っていったマオリの部族間の抗争は、次第に激しさを増していきました。
1852年、ナティ・トア族の有名な首長テ・ラウパラハの息子、タミハナ・テ・ラウパラハが英国から帰国しました。英国でビクトリア女王に謁見してから、タミハナには1つの決意が芽生えていました。誇り高く、部族意識の強いマオリを統合し、マオリの国を建設することが、土地の流失に歯止めをかけ、迫り来る植民地化の圧力に抵抗する唯一の方法だということです。そこから王選びが始まりました。
高名な首長の多くはキンギタンガのリーダーになることを辞退しました。王国の建設に意味を見出せない者もいれば、西欧的な考えに基づいた運動に追随することに気が進まない者もいました。しかし1857年4月、数々の有名な首長に推薦され、多くの人々に敬われていたワイカトの首長ポータタウ・テ・フェロフェロ王が、何度も辞退した後ついに王になることを承諾しました。
1858年6月、ポータタウはナルアワヒアで王に任命され、こうしてキンギタンガが始まりました。すでに老年を迎えていたポータタウでしたが、栄誉ある戦士として、ニュージーランド中のマオリ、パケハを問わず尊敬されていました。即位式のスピーチの中で、ポータタウはキンギタンガが力を発揮するために一致団結することの重要性を訴えました。この信条は、有名なワカタウアキ(名言)となっている彼の声明に表現されています。「Kotahi te kōhao o te ngira, e kuhuna ai, te miro mā, te miro pango me te miro whero(針にあるのはたったひとつの穴で、白い糸も、黒い糸も、赤い糸もそこを通らなければならない)」
北島の多くの首長は一致団結することの利益を認識し、進んで土地を進呈し、ポータタウの王国とキンギタンガに忠節を誓いました。1860年6月、キンギタンガを2年間推進し、勢力を獲得してきたポータタウは、ナルアワヒアの自宅で静かな眠りにつきました。
ポータタウの後を引き継いだのは息子のマトゥタエラ・タフィアオでした。タフィアオが即位した時、キンギタンガは大きな試練の時を迎えました。タラナキでマオリと入植者の間に戦争が勃発し、当時の政府はキンギタンガがその火付け役であると断定したのです。タフィアオや父ポータタウは、一貫して戦争に反対を唱えてきたにも関わらず濡れ衣を着せられたのでした。1863年7月、植民地政府軍はキンギタンガの土地を占領せんとマンガタフィリ川を越えました。マンガタフィリ川はポータタウが定めたアウカティ(境界線)で、それを侵すということは宣戦布告を意味するものでした。こうして政府軍によるワイカト地方の侵略が始まったのです。
ワイカト戦争は1860年代にかけて続きました。多くの命が失われ、120万エーカーのマオリの土地が没収されました。戦争の間タフィアオとキンギタンガ軍は現在キング・カントリーの名で知られる地域をさまよう羽目になりました。キンギタンガは大きな痛手を被りましたが、タフィアオのリーダーシップとパイ・マリレ(キリスト教に基づいて起ったマオリの思想運動)によって生きながらえ、再び強さを取り戻していきます。
タフィアオは1865年に休戦を宣言しましたが、1894年に亡くなるまで政府の不正行為と没収された土地の返還を訴え続けました。タフィアオはキンギタンガに政治的な牽引力と強い宗教性を与え、後世の人々の将来を支える基礎を作りました。大きな試練と悲しみ、そして痛みの時期にキンギタンガを率い、彼の目指す未来が確固たる土台を築くところまで導いたのです。
1894年タフィアオの息子マフタが王位を継承し、キンギタンガは20世紀へと突入します。マフタが1912年に没した後には息子のテ・ラタが王位を継ぎました。1933年にテ・ラタが亡くなると息子のコロキが後を引き継ぎました。1966年にコロキが亡くなったとき、王位は娘のテ・アタイランギカアフに継承されました。こうして初の女王マオリ・クィーンが誕生したのです。
キンギタンガのリーダーシップは初代ポータタウ直系の子孫へと受け継がれてきましたが、王位は単に世襲されてきたのではなく、キンギタンガに参加している部族のリーダーが全員で継承者を決定してきました。デイム・テ・アタのタンギ(マオリ語で葬儀の意)でも、先祖からの伝統にのっとり、雄弁な人々や各部族の長が演説を行い、誰がキンギタンガを率いるべきかを話し合いました。2006年8月21日、マオリの指導者たちは今日まで続いたポータタウの血筋を維持することに同意し、デイム・テ・アタの長男トゥヘイティア・パキが新しいマオリの王に選ばれました。
テ・アリキヌイ・トゥヘイティアは、人々から慕われる女王であった母親とあらゆる点で似ています。ティカンガ(マオリの慣習と儀礼)やテ・レオ・マオリ(マオリ語)に精通しており、王の伝統に倣ってマオリの人々のために生涯を捧げることをいとわないとして敬われています。これまでにも母の代理人として重要な公的行事に出席するなど、王の役割を学んできました。
毎年8月23日が新しい「コロネイハナ」の日に定められました。コロネイハナは、マオリ王の即位を記念する毎年恒例の祭典で、ワイカト川流域のトゥランガワイワイ・マラエで開催されます。ワカ(マオリのカヌー)によるレースやスポーツイベント、カパハカ、音楽、そして何よりキンギタンガにゆかりのある数多くの部族が一堂に会することが、「テ・ロヘ・ポタエ(キンギタンガの領地)」ならではの祭典であり、他では決して見られない光景なのです。
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