ニュージーランドとラグビーの偉大な伝説
ニュージーランドという国とラグビーがセットで存在しなかった時代はなかったと言っても過言ではありません。
2011年のラグビー・ワールドカップ(RWC2011)が近づくにつれて、ニュージーランド全国各地の街や地域でラグビー界の栄光が再び輝き始めています。栄誉ある英雄たちの活躍だけでなく、雪辱の経験も含めて、国民はスポーツ史に刻まれた瞬間の数々を振り返っているのです。
RWC2011を機にニュージーランドを訪れるラグビーファンの皆様も、この国のラグビー界の伝説を辿りながら、その舞台となった景観の中を旅してみれば、いっそう深みのある体験ができるに違いありません。
元祖ミスター・ラグビー
国としての歴史は古くはないニュージーランドですが、ラグビーとの関わりは長く、1870年にチャールズ・モンローという若者が紹介して以来、普及したと伝えられています。チャールズはネルソン近郊の出身ですが、英国の学校で教育を受けて祖国に戻ってきました。その後、南島の故郷にいる友人達を集め、ネルソンの植物公園で国内初のラクビーの試合をしました。現在、その場所には看板が立てられています。
モンローは同年の暮れに北島で初となる試合も開催しました。この時の対戦チームはウエリントン対ネルソンでした。ただ、ネルソンのチームを率いてクック海峡を渡ることは、現代では想像できないほど大変なものでした。当時は今のようなフェリーの便はなかったのです。彼は有力な政治家であった父親の助力を得て、政府所有の船で北島に向かいました。そしてウエリントンの湾岸に位置するペトーネで試合に臨みました。
チャールズ・モンローはやがてマナワツに移住し、全国でも有数のプラム農家として身を立てました。モンロー家の子孫は今もネルソンでラグビーに打ち込んでいます。
オールブラックスの名の由来
オールブラックスの名前の由来にはいくつかの説があり、長年にわたり議論の対象となっています。
最も長く語り継がれているのは、1905年の英国遠征の際、試合の様子を報道したイギリスの新聞の誤植がもとになったという説です。「オールバックス(All Backs、全員がバックスのよう)」とすべきところが、「オールブラックス(All Blacks)」となっていたということです。しかしながら、その証拠となるものは残っていません。
一方同じ頃、ラグビーチームをユニフォームの色で呼ぶことが多くなっていました。「オールブラックス」という呼び方自体は1893年にも存在していたため、1905年の遠征がきっかけとなって定着したと考えることもできます。
先住民チームの大遠征
最初に北半球へ遠征に出かけたラグビーチームはオールブラックスではなく、実はニュージーランド・ネイティブズでした。1888年から1889年にかけて、この先住民チームは大遠征を成し遂げています。
正式には全国代表の立場にはなかったものの、ニュージーランドからはるばる渡英して試合をするという、当時としては非常に困難な課題に初めて踏み切ったのは、まぎれもなく彼ら先住民チームだったのです。結成時はマオリ系の選手のみでしたが、遠征の際にはマオリ系ではない選手も何人か加わりました。実際にはニュージーランド出身でない選手もいましたが、ニュージーランド・ネイティブズとして団結し出発しました。
この遠征中にネイティブズがこなした試合は、ニュージーランド、オーストラリア、イギリスで計107試合。うち78試合で勝利を収めています。また、よりよいラグビーのために、オーストラリアのルールの一部を取り入れるといったことも遠征中に行われました。
ハカの起源
オールブラックスがテストマッチの前に行うハカは、ラグビーの国際試合ではすっかりお馴染みの儀式となっています。試合前のハカは1884年頃から様々なタイプのものが行われていたようですが、最も注目を集めたのは1905〜1906年にオールブラックスがイギリス遠征で披露したものです。これを機にハカの人気は急上昇しました。
かの有名なハカ「カ・マテ」も、1906年のイギリス遠征の際に初めて登場したと言われています。1916年のニュージーランド陸軍対ウェールズ戦では、プログラムに「ニュージーランドの戦闘の呼びかけ」との記述が入りました。これはハカが認知されたことを示したものと言えるでしょう。
昔は他の国の代表チームも、南アフリカならズールー族の闘いの踊りを、オーストラリアならアボリジニの闘いのかけ声を、といった具合に、それぞれの伝統でハカに応じていました。現代もその習わしを受け継いでいるのは、オールブラックスのみです。
1970年代くらいまでは、ハカはニュージーランドのチームが外国で試合をする際に行われていました。現在、オールブラックスの試合では毎回ハカがあります。
「ザ・オリジナルズ」と「ザ・インヴィンシブルズ」
歴代オールブラックスのなかでも特に強烈な印象を与えた2つのチームには、独特の愛称があります。
「ザ・オリジナルズ」と呼ばれているのは、1905年にグレートブリテン島とフランスの遠征を行ったチームです。初代「オールブラックス」となったこのチームは圧倒的な強さを見せつけ、35試合34勝、うち23試合は敵陣が無得点に終わるという活躍で、報道を賑わせました。イギリス生まれのスポーツをキーウィたちが新たな次元へと導いたのです。
1924年から1925年にかけて北半球を訪れたオールブラックスは、ザ・オリジナルズを上回る記録を残しました。イングランド、アイルランド、ウェールズ、フランスなどを相手に行われた32試合で全勝を収めたこのチームは、「ザ・インヴィンシブルズ」(invincibleは無敵の意)と呼ばれています。
合い言葉は”Bring Back Buck!”
バック・シェルフォードがキャプテンを務めた1987年から1990年の間、オールブラックスは負け知らずでした。シェルフォードはまた、現代の観客の期待に応えるべく、ハカのパフォーマンスを一新したことでも知られています。
オールブラックスが優勝した1987年のワールドカップでは、あるテストマッチでのスクラム中、陰嚢に裂傷を生じるケガに見舞われながらも、そのままプレーを続行しました。その豪傑ぶりは今も語りぐさとなっています。数多の活躍でバックが国民的ヒーローになったことは言うまでもありません。
1990年にシェルフォードがオールブラックスから外された時は、多くのファンが怒りをあらわにしました。彼がオールブラックスを去ってほどなく、オールブラックスの連勝記録に終止符が打たれると、いっそうファンの声は高まりました。テストマッチに「Bring Back Buck」(バックを戻せ)と書いた看板を掲げるファンの姿が見られるようになったのも、その頃からです。今やニュージーランドのラグビーシーンの一部となったこの合い言葉は、RWC2011でも見かけられるかもしれません。
ジョナ - 世界のスーパースター
190cm近い巨体で相手チームのディフェンダーをものともせずに走るジョナ・ロムの姿は、常に見るものを釘付けにしました。
ラグビー・ワールドカップで最高の選手として注目を集めたロムは、1995年、国際的なスター選手の地位をゆるぎないものにしました。並外れた体格とパワー、そしてスピードを兼ね備えたロムは、相手を威圧するような他に類を見ない選手でした。ディフェンダーの中に突っ込み、軽々と相手をなぎ倒して走り抜ける独自のスタイルは、当時のイングランド主将ウィル・カーリングをして「怪物」と言わしめました。
その爆発的なプレーにより、全盛期には1人でチケットの売り上げをアップさせることができるラグビー界きっての人気選手でした。
世界初のラグビー博物館
ニュージーランド・ラグビー博物館は、世界初の国立ラグビー博物館です。1969年、ジョン・シンクレアによりパーマストン・ノースに設立されたこの博物館は、当初から現在に至るまで、ラグビーをこよなく愛する人々の熱意とボランティアの支援により存続しています。
館内には、3万点以上の貴重な資料が所蔵されており、ラグビー史の研究者やジャーナリストにとって重要な情報源となっています。主な展示品は、プログラム、ユニフォーム、珍しい記念の品、1880年にまで遡る切り抜きなどです。
2011年までにはパーマストン・ノースの主要博物館であるテ・マナワに増築される新館に移転することになっています。世界各地からやってくるラグビーファンを魅了するような、インタラクティブな展示も新たに加わります。
ブラック・ファーンズ
ラグビー界では知らない者はないニュージーランドのオールブラックスですが、知名度こそ劣るものの、女子ラグビーの全国代表チーム、ブラック・ファーンズの活躍ぶりもなかなかのものです。
ブラック・ファーンズの女子ラグビー・ワールドカップ初出場は1991年。一気に準決勝に進出するという快挙を遂げました。その後も出場を続け、1998年に初優勝、2002年と2006年にも世界の頂点に立っています。女子ラグビーの国際的強豪チームとして、2010年のワールドカップでの活躍が期待されています。
1990年以来、ブラック・ファーンズは52試合の国際試合をこなしてきましたが、そのうち負けたのは2回のみです。
ニュージーランドの 'log o’ wood’とは
ランファーリー・シールドは、ニュージーランド国内のラグビーで頂点に立った地方代表チームに手渡される盾で、およそ一世紀に及ぶ歴史があります。親しみを込めてロゴウッドという愛称で呼ばれるランファーリー・シールドは、ニュージーランド総督であったランファーリー伯爵からラグビー協会に贈られました。
1902年に初めてこの盾を手にしたのはオークランド代表でした。当初はシーズン全体の活躍を考慮して選考されていましたが、ほどなくチャレンジ制が導入されました。以来、シーズン中に公式に指定された試合で、保持者と挑戦者がランファーリー・シールドの争奪をかけて対戦しています。
プロ化されたラグビーが盛況となるにつれ、ランファーリー・シールドに対する注目度は以前ほどではなくなってきましたが、それでも伝統あるこの盾は、多くのキーウィたちにとって、ニュージーランドのラグビーの栄光を象徴する存在です。
コリン・ミーズ - 世紀を代表する選手
コリン・ミーズはニュージーランドのラグビーファンにとって伝説そのものです。「世紀を代表する選手」としてニュージーランド・ラグビー協会に選ばれた彼を歴代でも随一とみなす人はたくさんいます。
エンフォーサーという愛称で知られるミーズのプレイは硬派なことで有名です。南アフリカとの試合中、腕を骨折したままプレイを続行したこともあります。チームの医師がシャツを切って骨折を確認した時、すくなくとも試合には勝ったとコメントしたことはよく知られています。
ミーズにまつわる逸話としては、両脇に1匹ずつ羊を抱えて農場の丘を駆け上がるというトレーニングをしていた、というものがよく聞かれます。それは事実ではありませんが、農場で毎日15時間働いていると、自然と体も鍛えられたようです。彼自身、ラグビーシーズンの冬は、大変な農作業から離れられるから楽しみだ、と語ったことがあります。
コリン・ミーズのファンクラブのメンバーは、毎年彼の誕生日に5番のジャージを着て集まり、往年のオールブラックス選手に5オンスのビールで乾杯することにしています。
さらに詳しい情報::
Iconic New Zealand rugby grounds(英語のみ)
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